ゆりかごを揺らす手
2012年 05月 16日
雨安居(注①)が明けたら、ミャメイは母に返事をしなければならない。
そう言われている。
彼女は人生に錨を下ろし、一つところに座り込んでぼんやりしている人間ではない。
母親と同じように、いつも動き回っているタイプである。
それにしても、母の気持ちが判らない。
姉のスエと4人の妹たちがそれぞれ結婚して、この家を出て行った今、母のそばには彼女一人だけが残っている。
母が年老いてしまったとき、誰か身の回りを助ける者がいるべきではないか。
だのに、母は「結婚しなくちゃいけない」と言う。
仮に結婚したとして、相手の方へ自分が嫁いでいく場合、母を連れて行くなら可能である。
しかし、父が寝たきりの今はそうもいかない。
それとも相手に自分の方へ来てもらうようにするか?
その結婚相手が仕事で地方勤務になったとしたら?
年老いた母と病床の父。
どうして、安居が開けたら返事をしなさいと迫っているのか、よく判らない。
*
母は、父が勤め人であった頃から、モヒンガー屋(注②)をやっていた。
モヒンガー屋をやりながら、ちょっと席を立っては一人生み、また立ち上がっては一人生みという感じで、彼女たち6人を生んで来たのだといっても間違いではない。
母がえらいのは彼女達全員に学士号を取るまで教育をつけたことである。
ミャメイは姉のスエと一緒に、妹たちのおむつを洗ってやらねばならなかった。
学校へ行く前に、母のモヒンガー屋へ妹たちを行って乳を飲ませてやらなくてはならなかった。
それが終わると、ゆりかごに寝かしつけてから登校したのだった。
父は役所へ出て行った。
父がいくら月給をもらっていたかは知らないが、娘たち全員の教育と、この6人を2年おきに出産した費用のために、母がモヒンガー屋をやらなくてはならなかったことは彼女たちにも分かっていた。
時として、ミャミイは父がいるということを忘れていることがあった。
ムリもない。
父は朝パイプをくわえて新聞を読む。
それが済むと、彼女が用意した朝食を食べ、役所へ出かけるのであった。
夕方6時には、そうだ、お父さんにご飯を食べさせなくてはと思い出す。
それまで、ミャミイも母も、忙しく動き回っているわけだ。
*
ある日曜日、ミャミイはゆりかごの中の赤ん坊を見てギクっとした。
ニョウの身体が熱かった。
「おとうさん!おとうさん!ニョウがひきつけている!」
彼女は父の部屋に駆け寄った。
父は読んでいた書物から目を上げて、彼女の方を見た。
「そうか。おかあさんが戻ったら診療所へお行き」
*
ミャミイが10年生の修了試験を受けた年、母は一番末のトゥエトゥエを生んだ。
母か過労が祟ったのだろうか、トゥエトゥエを身ごもってから、余り丈夫でなくなった。
そのときも出血しているという。
恐くなって、姉のスエと共に父を呼びに行くと、
「うむ。産婆のキンチョ先生をお呼びにお行き」
父はそう言っただけであった。
*
ミャミイもスエも就職できて嬉しかった。
あと学校へ行っている子たちは4人だけになったので、母の荷も軽くなった。
そして、父親が年金生活に入る一年前、ミャミイのすぐ下の妹たちも大学を卒業した。
*
おかしなことに、彼女たちの中で一番末っ子のトゥエトゥエが真っ先に結婚した。
このトゥエトゥエはこの世に生まれて以来ずっと母を脅かしてきた人物である。
今回も学生の身で男と駆け落ちしたのだった。
家に帰ると、さすがにこのときは母も声をあげて泣いていた。
父に対しても大声を上げた。
「誰とだ、とか、何だとか、あなた、訊ねようともしないんですか?世間並みに娘を預けてもらうとか、男の側の親たちと話さなくちゃいけないでしょう?手はずをしなくちゃいけないです・・・」
「必要ないよ」
父はそれだけを言って、椅子の背もたれに身を投げかけてしまった。
その後、約2年おきに妹たちの結婚式があり、ミャミイを残して全員が行ってしまったのである。
*
父が年金生活に入った。
そのために家計の収入が減った分は彼女たちの上の姉妹二人が月給から補っていた。
父は安楽椅子に座る仕事のほかに、もう一つ別の仕事ができた。
年金生活仲間たちと喫茶店に座るという仕事であった。
そうして、母には年金から一銭も渡してやらないのである。
ミャミイだけは自分の月給の全額を母に預けていた。
年金生活に入って2年ほど経った頃、父は中風で寝たきりになった。
母には動揺は無かったようだ。
スエはよくやって来た。
長女なので、責任を感じている様子である。
「スエ姐さん、おとうさんがこんな風になったのを、かあさん別に動揺もしてないのよ」
とミャミイが言うと、
「夫だものね、気の毒だとは思っているでしょうよ。でも、動揺するほどおとうさんの様子、特に変わってないじゃない。椅子に座ってたのが寝床で横になっている、それだけの違いよ」とスエ。
それもそうであった。
姉は的確なことが言えるのだ。
*
今や母も一休みである。
もう子どもも生まない。
モヒンガー屋もやらない。
ところが、それもつかの間だった。
母の家にやって来て、真ん中の部屋の梁に、最初にゆりかごを吊るしたのは末っ子のトゥエトゥエだった。
彼女は学生のまま駆け落ちをしたので、卒業まで勉強するように母に言われたのである。
そのうち、他の姉妹たちもそれぞれ勤めに出ている間、母に子どもを預けに来るようになった。
家は再び、子ども達の泣き声で賑やかになったのである。
モヒンガーを作った母の手は、今では子どものゆりかごを揺らしている。
子どものゆりかごの傍らに小さなゴザを敷いて横になり、話しかけながら、ゆりかご揺らしの手は止めない。
時にはそのまま寝入ってしまうこともちょいちょいある。
*
「お待ちよ、おまえはトゥンルインさんのどこが気に入らないんだい?」
ゆりかごを揺らしながら、母がまたもや問いかける。
母の質問にミャミイは答えない。
「夫」という役割を父がどのように受け入れ、実行したのかわからない。
母の方もどのように理解し、受け入れているのだろう?
母の人生で「夫」という言葉に関して、第三者が傍から見ていて羨ましいと思うような点が果たしてあっただろうか?
ミャミイには一つも思い当たらない。
「もうかあさんたら。ゆりかごを揺らすのに、まだ手がくたびれないの?」とミャミイ。
「これは生きている限り揺らさなきゃ。それが楽しいことでもあるんだよ。この子らが眠っているの可愛くないかい?」と母。
「孫たちを揺らし終えたら、とうさんもかごに入れて揺らすのね」
彼女が言うと、母はクックッと笑った。
「女ってのはこんなもんだよ。子どもらを育て、それから孫も育てて、夫が年取ったり、病気になったら夫も続けて養ってさ」
「かあさんったら養ってばかり。キリがないわ」
「そうさ、そうなんだよ」
そういって、母は笑う。
母はまた、こうも言う。
「かあさんが死んでからヘンな相手にでも行き遭ってごらん。大変だよ」
母の心配ごとの行き着くところはつまりこれなのだ。
*
母の表現で言うならば、母の生涯はサマになっているらしい。
何がサマになっているのだろう?
父親像というのは、月給百チャットを渡してご飯を食べている姿だけである。
こうして母は彼女たち6人を生み育てたのである。
何一つ父が心から感動しているのを見かけたこともない。
母はよく考えるべきだ。
彼女が夫を得て過ごして来た生涯全体のことをよくよく考えてから、ミャミイを説得するべきである。
おまけに日を限って返答しなければいけないなんて。
それが「両安居が明けたら」なのだ。
ああ、父を哀れに思う。
ミャミイは父にきちんきちんと食事を用意してきた。
今も寝床で横になったままだから、大小便の汚れものを洗濯してあげている。
彼女は父としては好きである。
しかし、その父は男性族の中で「夫」科に属している。
トゥンルインも男性族の一人。
万が一にも、父のような「夫」の石像だったら?
トゥンルインがもし、父のタイプの人間だったとしたら・・・
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
ミャミイには母のような資質はない。
悟りを開くだけの精進が足りない。
ゆりかごを揺らす手には精進が必要である。
万が一にも、ミャミイの胸の中に、結婚しようというときめく思いが感じられるようになったら、彼の胸に自分は抱かれているかも知れない。
涼季がめぐり来ても、ダズインの花の香りが立ち込めた霧が彼女を抱いてあやしてくれているかも知れない。
しかし眠りは瞬時のこと。
夢はさらにまたうたかた。
突如彼女の鼻孔におしっこ臭い匂い、湿ったカビの匂い、水蒸気などが入ってきたら。
彼女は涼季の夢から飛び起きて、そこに石像を一つ見出すことになるのだろうか。
彼女の手はゆりかごを揺らしたい。
石像をうちこわす手にはしたくない。
母のように忍耐強さもなのだから・・・。
母さん、せめて暑季の初めの頃まで考えさせて下さい。
注①:南方上座部仏教では雨期の間の3ヶ月を持戒期間として僧も在家信者も戒律を守り、仏道に精進することになっている。ビルマの場合は太陽暦7月頃から10月頃までの間
注②:モヒンガーとは、ビルマ人の代表的スナック。米粉で作ったそうめんのような麺に、魚肉を主材料にしたソースをかけて食べる。
『ゆりかごを揺らす手』キンフンニユ著/「マヘティー」誌1984年10月号初出/土橋泰子訳)
『路上で食事をする人々』(ヤンゴン)
kokeko's memo: 母を見て、父を見て、結婚について、夫婦について、ぐるぐると考えあぐねるミャミイの心の動きが実に鮮やかな物語だ。そして、母の力強い「手」が何度も登場する。解説によると、この著者の様々な女性の生き方を描いた数々の長編小説は版を重ね、その多くが映画化されているようだ。「タイトルは『ゆりかごを揺らす手は世界を統治する』というビルマでよく用いられる諺からとったものです。この作品を通して、平凡な女性のたくましさを描きたかったのです」と著者。
そう言われている。
彼女は人生に錨を下ろし、一つところに座り込んでぼんやりしている人間ではない。
母親と同じように、いつも動き回っているタイプである。
それにしても、母の気持ちが判らない。
姉のスエと4人の妹たちがそれぞれ結婚して、この家を出て行った今、母のそばには彼女一人だけが残っている。
母が年老いてしまったとき、誰か身の回りを助ける者がいるべきではないか。
だのに、母は「結婚しなくちゃいけない」と言う。
仮に結婚したとして、相手の方へ自分が嫁いでいく場合、母を連れて行くなら可能である。
しかし、父が寝たきりの今はそうもいかない。
それとも相手に自分の方へ来てもらうようにするか?
その結婚相手が仕事で地方勤務になったとしたら?
年老いた母と病床の父。
どうして、安居が開けたら返事をしなさいと迫っているのか、よく判らない。
*
母は、父が勤め人であった頃から、モヒンガー屋(注②)をやっていた。
モヒンガー屋をやりながら、ちょっと席を立っては一人生み、また立ち上がっては一人生みという感じで、彼女たち6人を生んで来たのだといっても間違いではない。
母がえらいのは彼女達全員に学士号を取るまで教育をつけたことである。
ミャメイは姉のスエと一緒に、妹たちのおむつを洗ってやらねばならなかった。
学校へ行く前に、母のモヒンガー屋へ妹たちを行って乳を飲ませてやらなくてはならなかった。
それが終わると、ゆりかごに寝かしつけてから登校したのだった。
父は役所へ出て行った。
父がいくら月給をもらっていたかは知らないが、娘たち全員の教育と、この6人を2年おきに出産した費用のために、母がモヒンガー屋をやらなくてはならなかったことは彼女たちにも分かっていた。
時として、ミャミイは父がいるということを忘れていることがあった。
ムリもない。
父は朝パイプをくわえて新聞を読む。
それが済むと、彼女が用意した朝食を食べ、役所へ出かけるのであった。
夕方6時には、そうだ、お父さんにご飯を食べさせなくてはと思い出す。
それまで、ミャミイも母も、忙しく動き回っているわけだ。
*
ある日曜日、ミャミイはゆりかごの中の赤ん坊を見てギクっとした。
ニョウの身体が熱かった。
「おとうさん!おとうさん!ニョウがひきつけている!」
彼女は父の部屋に駆け寄った。
父は読んでいた書物から目を上げて、彼女の方を見た。
「そうか。おかあさんが戻ったら診療所へお行き」
*
ミャミイが10年生の修了試験を受けた年、母は一番末のトゥエトゥエを生んだ。
母か過労が祟ったのだろうか、トゥエトゥエを身ごもってから、余り丈夫でなくなった。
そのときも出血しているという。
恐くなって、姉のスエと共に父を呼びに行くと、
「うむ。産婆のキンチョ先生をお呼びにお行き」
父はそう言っただけであった。
*
ミャミイもスエも就職できて嬉しかった。
あと学校へ行っている子たちは4人だけになったので、母の荷も軽くなった。
そして、父親が年金生活に入る一年前、ミャミイのすぐ下の妹たちも大学を卒業した。
*
おかしなことに、彼女たちの中で一番末っ子のトゥエトゥエが真っ先に結婚した。
このトゥエトゥエはこの世に生まれて以来ずっと母を脅かしてきた人物である。
今回も学生の身で男と駆け落ちしたのだった。
家に帰ると、さすがにこのときは母も声をあげて泣いていた。
父に対しても大声を上げた。
「誰とだ、とか、何だとか、あなた、訊ねようともしないんですか?世間並みに娘を預けてもらうとか、男の側の親たちと話さなくちゃいけないでしょう?手はずをしなくちゃいけないです・・・」
「必要ないよ」
父はそれだけを言って、椅子の背もたれに身を投げかけてしまった。
その後、約2年おきに妹たちの結婚式があり、ミャミイを残して全員が行ってしまったのである。
*
父が年金生活に入った。
そのために家計の収入が減った分は彼女たちの上の姉妹二人が月給から補っていた。
父は安楽椅子に座る仕事のほかに、もう一つ別の仕事ができた。
年金生活仲間たちと喫茶店に座るという仕事であった。
そうして、母には年金から一銭も渡してやらないのである。
ミャミイだけは自分の月給の全額を母に預けていた。
年金生活に入って2年ほど経った頃、父は中風で寝たきりになった。
母には動揺は無かったようだ。
スエはよくやって来た。
長女なので、責任を感じている様子である。
「スエ姐さん、おとうさんがこんな風になったのを、かあさん別に動揺もしてないのよ」
とミャミイが言うと、
「夫だものね、気の毒だとは思っているでしょうよ。でも、動揺するほどおとうさんの様子、特に変わってないじゃない。椅子に座ってたのが寝床で横になっている、それだけの違いよ」とスエ。
それもそうであった。
姉は的確なことが言えるのだ。
*
今や母も一休みである。
もう子どもも生まない。
モヒンガー屋もやらない。
ところが、それもつかの間だった。
母の家にやって来て、真ん中の部屋の梁に、最初にゆりかごを吊るしたのは末っ子のトゥエトゥエだった。
彼女は学生のまま駆け落ちをしたので、卒業まで勉強するように母に言われたのである。
そのうち、他の姉妹たちもそれぞれ勤めに出ている間、母に子どもを預けに来るようになった。
家は再び、子ども達の泣き声で賑やかになったのである。
モヒンガーを作った母の手は、今では子どものゆりかごを揺らしている。
子どものゆりかごの傍らに小さなゴザを敷いて横になり、話しかけながら、ゆりかご揺らしの手は止めない。
時にはそのまま寝入ってしまうこともちょいちょいある。
*
「お待ちよ、おまえはトゥンルインさんのどこが気に入らないんだい?」
ゆりかごを揺らしながら、母がまたもや問いかける。
母の質問にミャミイは答えない。
「夫」という役割を父がどのように受け入れ、実行したのかわからない。
母の方もどのように理解し、受け入れているのだろう?
母の人生で「夫」という言葉に関して、第三者が傍から見ていて羨ましいと思うような点が果たしてあっただろうか?
ミャミイには一つも思い当たらない。
「もうかあさんたら。ゆりかごを揺らすのに、まだ手がくたびれないの?」とミャミイ。
「これは生きている限り揺らさなきゃ。それが楽しいことでもあるんだよ。この子らが眠っているの可愛くないかい?」と母。
「孫たちを揺らし終えたら、とうさんもかごに入れて揺らすのね」
彼女が言うと、母はクックッと笑った。
「女ってのはこんなもんだよ。子どもらを育て、それから孫も育てて、夫が年取ったり、病気になったら夫も続けて養ってさ」
「かあさんったら養ってばかり。キリがないわ」
「そうさ、そうなんだよ」
そういって、母は笑う。
母はまた、こうも言う。
「かあさんが死んでからヘンな相手にでも行き遭ってごらん。大変だよ」
母の心配ごとの行き着くところはつまりこれなのだ。
*
母の表現で言うならば、母の生涯はサマになっているらしい。
何がサマになっているのだろう?
父親像というのは、月給百チャットを渡してご飯を食べている姿だけである。
こうして母は彼女たち6人を生み育てたのである。
何一つ父が心から感動しているのを見かけたこともない。
母はよく考えるべきだ。
彼女が夫を得て過ごして来た生涯全体のことをよくよく考えてから、ミャミイを説得するべきである。
おまけに日を限って返答しなければいけないなんて。
それが「両安居が明けたら」なのだ。
ああ、父を哀れに思う。
ミャミイは父にきちんきちんと食事を用意してきた。
今も寝床で横になったままだから、大小便の汚れものを洗濯してあげている。
彼女は父としては好きである。
しかし、その父は男性族の中で「夫」科に属している。
トゥンルインも男性族の一人。
万が一にも、父のような「夫」の石像だったら?
トゥンルインがもし、父のタイプの人間だったとしたら・・・
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
ミャミイには母のような資質はない。
悟りを開くだけの精進が足りない。
ゆりかごを揺らす手には精進が必要である。
万が一にも、ミャミイの胸の中に、結婚しようというときめく思いが感じられるようになったら、彼の胸に自分は抱かれているかも知れない。
涼季がめぐり来ても、ダズインの花の香りが立ち込めた霧が彼女を抱いてあやしてくれているかも知れない。
しかし眠りは瞬時のこと。
夢はさらにまたうたかた。
突如彼女の鼻孔におしっこ臭い匂い、湿ったカビの匂い、水蒸気などが入ってきたら。
彼女は涼季の夢から飛び起きて、そこに石像を一つ見出すことになるのだろうか。
彼女の手はゆりかごを揺らしたい。
石像をうちこわす手にはしたくない。
母のように忍耐強さもなのだから・・・。
母さん、せめて暑季の初めの頃まで考えさせて下さい。
注①:南方上座部仏教では雨期の間の3ヶ月を持戒期間として僧も在家信者も戒律を守り、仏道に精進することになっている。ビルマの場合は太陽暦7月頃から10月頃までの間
注②:モヒンガーとは、ビルマ人の代表的スナック。米粉で作ったそうめんのような麺に、魚肉を主材料にしたソースをかけて食べる。
『ゆりかごを揺らす手』キンフンニユ著/「マヘティー」誌1984年10月号初出/土橋泰子訳)
『路上で食事をする人々』(ヤンゴン)
kokeko's memo: 母を見て、父を見て、結婚について、夫婦について、ぐるぐると考えあぐねるミャミイの心の動きが実に鮮やかな物語だ。そして、母の力強い「手」が何度も登場する。解説によると、この著者の様々な女性の生き方を描いた数々の長編小説は版を重ね、その多くが映画化されているようだ。「タイトルは『ゆりかごを揺らす手は世界を統治する』というビルマでよく用いられる諺からとったものです。この作品を通して、平凡な女性のたくましさを描きたかったのです」と著者。
by kokeko-13 | 2012-05-16 20:27 | ビルマ文学