「諸々の愚者に近づくことなかれ」とは言うけれど・・・(上)
2012年 05月 16日
夜ごと、眠れなくなって久しい。
孫のトーマウンの寝息、歯ぎしり、夜回りたちが鉄のドラを打つ音、向かいの家の乳児の泣き声、お寺の木製の鐘の音、一番鶏の時を告げる音などに耳を澄ませながら、ワインばあさんの思考の糸は、あちらにいったり、こちらにいったりと、風の吹くままに漂っていた。
昨日の夜は、トーマウンが「ばあちゃん、今晩は"バリヤン"飲んで寝てごらんよ」と言って、白い錠剤を一錠くれた。
*
すると、娘のピョンウェイが夢の中に出て来た。
彼女はワイン自ら着せてやった黄色のジョーゼットのエンジー(注:上着)を着ていた。
「おまえ、どこから来た言うんだえ」
「あら、かあさんたら、わたしをお墓まで送ってくれたのは、かあさんじゃないの。お墓から来たに決まっているでしょ」
娘が死んでしまったという事をいま初めて思い出したワインは、もつれるように寝床から起き上がって、娘の手を取った。
しかし空をつかむかのように、なにも手に触れない。
「わたしの息子は?元気かしら、かあさん」
「あの子は、わたしがちゃんと育てているよ。小さいうちから勉強もよくできる。高校卒業試験だって一発で合格した。そのあと仕事をしながら通信教育で勉強を続けて、学士の資格も手にしたさ。あっちを見てごらん、トーウマンの学士姿の卒業写真、立派なものじゃないか」
顔を花のようにほころばせて、「あの子は、父親に似ているわね」と娘。
突如怒りに突き上げられ、「ピョンウェイや、おまえはあいつのことを、まだふっきれていないのかい」ときつい口調で言ったところで、ワインは目が覚めた。
*
夢と悟ったとき、ワインは息切れとめまいを覚えた。
壁に掛けてある写真をじっと見ているうちに、写真がわずかながら動いた気がした。
風のためか、ヤモリがぶつかったためなのか。
「ピョンウェイったら、あのバカ娘が。あれが連れ添った人間もバカ。あの娘もバカ者さ。だからこそ、あんな愚かな芝居は早々に幕が降りたんだ」
*
ワインは、文盲だった。
「あ」を籠ほど大きく書いてみせたとしても、何も判らなかった。
しかし、他人の学問に対しては敬意を払った。
学問は貴いものだと思っていた。
幼いころは、ただただ勉強したかった。
文字が読めるようになれば、お金持ちになれると心から信じていた。
しかし、勉学の機会は与えられなかったのだ。
母親にせがむと、「ようっく、考えな。学校に通うってことが簡単なことだと思うかえ。無料っていったって、月謝を払わなくていいだけのこと。本だとか、鉛筆だとか、いったい誰に買ってもらうってんだい。文字が書けなくったって、読めなくったって、それがどうだってんだ」と言うのだった。
「わたしは文字が読めないけれど、結婚するなら学問のある人にしよう」
ワインはそんなふうに決心していた。
*
そして、ワインは、後に夫となるキンマウン先生に巡り合った。
40も過ぎたやもめではあったが、彼には先妻の子どももおらず、家族関係にも問題がなかった。
学校の教師といえば、学問に関しては何の心配もない。
子どもができたって、他人の学校に通わせる必要はない。
そんなたった一つの理由だけで、彼が年をくっていることも、風采のあがらぬこともどこかに行ってしまい、首を縦に振って受け入れてしまった。
しかし、ワインは運命の変化というものを計算していなかった。
結婚生活5年目、娘ピョンウェイが4才のときに、夫は高熱を出して急死した。
「なんてこったろう、とうさん。娘はまだ学校にも上がっていないのに、私たちを置いていってしまうの」と、泣くばかりのワインであった。
『ベランダから外を眺める親子3人』(ヤンゴン)
『歩くのもまだおぼつかない女の子』(ヤンゴン郊外)
孫のトーマウンの寝息、歯ぎしり、夜回りたちが鉄のドラを打つ音、向かいの家の乳児の泣き声、お寺の木製の鐘の音、一番鶏の時を告げる音などに耳を澄ませながら、ワインばあさんの思考の糸は、あちらにいったり、こちらにいったりと、風の吹くままに漂っていた。
昨日の夜は、トーマウンが「ばあちゃん、今晩は"バリヤン"飲んで寝てごらんよ」と言って、白い錠剤を一錠くれた。
*
すると、娘のピョンウェイが夢の中に出て来た。
彼女はワイン自ら着せてやった黄色のジョーゼットのエンジー(注:上着)を着ていた。
「おまえ、どこから来た言うんだえ」
「あら、かあさんたら、わたしをお墓まで送ってくれたのは、かあさんじゃないの。お墓から来たに決まっているでしょ」
娘が死んでしまったという事をいま初めて思い出したワインは、もつれるように寝床から起き上がって、娘の手を取った。
しかし空をつかむかのように、なにも手に触れない。
「わたしの息子は?元気かしら、かあさん」
「あの子は、わたしがちゃんと育てているよ。小さいうちから勉強もよくできる。高校卒業試験だって一発で合格した。そのあと仕事をしながら通信教育で勉強を続けて、学士の資格も手にしたさ。あっちを見てごらん、トーウマンの学士姿の卒業写真、立派なものじゃないか」
顔を花のようにほころばせて、「あの子は、父親に似ているわね」と娘。
突如怒りに突き上げられ、「ピョンウェイや、おまえはあいつのことを、まだふっきれていないのかい」ときつい口調で言ったところで、ワインは目が覚めた。
*
夢と悟ったとき、ワインは息切れとめまいを覚えた。
壁に掛けてある写真をじっと見ているうちに、写真がわずかながら動いた気がした。
風のためか、ヤモリがぶつかったためなのか。
「ピョンウェイったら、あのバカ娘が。あれが連れ添った人間もバカ。あの娘もバカ者さ。だからこそ、あんな愚かな芝居は早々に幕が降りたんだ」
*
ワインは、文盲だった。
「あ」を籠ほど大きく書いてみせたとしても、何も判らなかった。
しかし、他人の学問に対しては敬意を払った。
学問は貴いものだと思っていた。
幼いころは、ただただ勉強したかった。
文字が読めるようになれば、お金持ちになれると心から信じていた。
しかし、勉学の機会は与えられなかったのだ。
母親にせがむと、「ようっく、考えな。学校に通うってことが簡単なことだと思うかえ。無料っていったって、月謝を払わなくていいだけのこと。本だとか、鉛筆だとか、いったい誰に買ってもらうってんだい。文字が書けなくったって、読めなくったって、それがどうだってんだ」と言うのだった。
「わたしは文字が読めないけれど、結婚するなら学問のある人にしよう」
ワインはそんなふうに決心していた。
*
そして、ワインは、後に夫となるキンマウン先生に巡り合った。
40も過ぎたやもめではあったが、彼には先妻の子どももおらず、家族関係にも問題がなかった。
学校の教師といえば、学問に関しては何の心配もない。
子どもができたって、他人の学校に通わせる必要はない。
そんなたった一つの理由だけで、彼が年をくっていることも、風采のあがらぬこともどこかに行ってしまい、首を縦に振って受け入れてしまった。
しかし、ワインは運命の変化というものを計算していなかった。
結婚生活5年目、娘ピョンウェイが4才のときに、夫は高熱を出して急死した。
「なんてこったろう、とうさん。娘はまだ学校にも上がっていないのに、私たちを置いていってしまうの」と、泣くばかりのワインであった。
『ベランダから外を眺める親子3人』(ヤンゴン)
『歩くのもまだおぼつかない女の子』(ヤンゴン郊外)
# by kokeko-13 | 2012-05-16 09:53 | ビルマ文学