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花のゆくえ ⑧親鳥はもういない   

1978年1月。

殺戮は続き、村は寡婦で満ちあふれていた。手が血で汚れた権力者によってどの家族もちりぢりにさせられた。

ネアック・ヴェアン地区にある作業現場は焼け付くようだった。人々はそこで堤防を築き、灌漑用水路を掘った。裏切り者集団のでたらめな水利計画に従って石を砕き、木の根を掘り起こし、大地を切り開いた。移動部隊の多くの人はその現場で命を落とした。その上、毎晩のように"オンカーの要請"によって行方不明になる者が後を絶たなかった。人々は鍬の柄で殴り殺されたり、銃剣で刺し殺されたり、あるいは食べ物が与えられず病院送りとなって、何の治療もされないまま放置され死んでいった。

その晩、空には十五夜の月が見えた。空は澄み切って、柔らかな月の光を覆う黒い雲ひとつなかった。その光は土地を開墾し、掘り起こした土を運んで疲れている人々をほんのわずかだが癒した。

ミアルダイは、ソーイの娘で夫ヨームに死なれたシターと二人で天秤棒を使って土を運んでいた。シターは作業場の炊事係もしていた。その日は、ちょうど午後、村から戻ってきたばかりだった。土を運んでいる最中に、シターがミアルダイの顔を何度もうかがい見るので、彼女は不思議に思った。なぜかしら体中がぞくぞくする。何か悪いことが自分の身にも降りかかるのではないか。高さ2メートルほどの堤防の上まで来たところで、ミアルダイはシターに尋ねた。

「村にいるあたしのお父さんの様子はどう?シターさんがこっちを何度も見るから、なんだか胸騒ぎがして」

シターは彼女の質問に答えなかったが、堤防から50メートルほど先にある茂みの方を口ととがらせて示した。

「ちょっと用足しに行かない?」

ミアルダイは何か話があるのだと察した。

「ええ」

人から離れたところまで来ると、シターはミアルダイを憐れみ深い目で見つめ、震えながら言った。

「ミアルダイ…、驚かないで、しっかりするのよ…。オンカーが来て、あんたのお父さんを"学習"に連れて行ったの」

「"学習"に!」

ミアルダイは絶句した。シターは手でミアルダイの口をふさぎ、近くに人がいないかときょろきょろした。もし人に聞かれたら、自分にも危険が及ぶことになる。シターは続けた。

「大きな声、出さないで。あんたには言いたくなかったのよ。ひどく動揺するんじゃないかと思って。そしたらあんたは罪に問われる。あんたも危なくなるんだよ」

「お父さん…、お父さんが何をしたて言うの?シターさん、お父さんは何か間違ったことをしたの?」

「あのとき、あんたのお父さんは、オンカーが人の命を動物か物みたいに粗末にするのが我慢できなくなってしまったんだよ。だから、ついいろいろしゃべってしまって。とうとう自分を殺すことになったんだよ。今日、チョッチおじさんが犂を折っちゃったんだ。オンカーはチョッチおじさんを敵だと言って、"学習"に連れて行こうとした。あんたのお父さんは、人間の命と物の価値についていろいろ言って助けようとしたんだよ。壊れたものは修理できるけど、人間は…って。オンカーは、お父さんが口答えしたといって、チョッチおじさんと一緒に連れて行ってしまったんだ…」

「ああ、なんてこと!お父さん…、ああ、シターさん、あたし…」

ミアルダイはしゃがみこんだ。シターは青くなった。自分が今しゃべったことをミアルダイが隠し通せないのではないかと思った。シターはミアルダイに気を確かに持つようにと懇願した。ミアルダイは気持ちを奮い立たせ、涙がこぼれないようにした。話をしてくれたシターの身の安全のためにも聞いたことを忘れようとした。

ミアルダイはぼんやりと仕事を続けた。時々、シターがこっそり体をつついたので、座ったまま指図しているレンの悪魔のような視線から逃れることができた。



その晩、ミアルダイは一睡もしなかった。目をかっと開いたままだった。裏切り者たちが父親に対して行った恐ろしい行為を想像した。瀕死の父親が彼女を呼ぶ声が聞こえた。

「パパ…、パパ…。パパが死んでしまうなんて」



明け方、彼女は体の力が抜けて綿になったように感じた。土砂運びには行けそうにない。体と頭が熱い。酷い悲しみと睡眠不足で朦朧としていた。だが、休息を願い出る勇気はなかった。

土砂運びを三往復したところで、ミアルダイはめまいがしてそのまま堤防の裾に倒れ込んだ。

「ふん、この同志の嘘つきにもほどがあるな!」

レンはかがんでミアルダイの頬を何度も殴った。倒れた振りをしていると思ったのだ。何度殴っても、ミアルダイは起き上がる様子もなく、ただ横たわっていた。魂は哀れな少女の体から離れてしまっていた。レンは人に命じて野営地に担いで行かせて放って置いた。シターともう一人の炊事係である"旧人民"(注:1975年4月17日以前にクメール・ルージュの解放区に居住していた者)の娘のムオンが、ミアルダイにカオ・クチョルをしたり、ルット(注:マッサージの一種)をしてやったりした。彼女が意識を取り戻すと、あわてて自分の仕事に戻った。

シターはこっそり一杯の米飯と塩漬けの魚ひとかけらを、ミアルダイのために盗んだ。それらはレンのためのものだった。ミアルダイは悲痛な思いで食べた。シターは毎日ミアルダイのために食べ物を盗んでやった。

ミアルダイの具合は一向に良くならなかった。レンに殴られることもあり、病状はますます悪くなる一方だった。彼女は奇妙な病気にかかっていた。頭痛が激しく、髪はほとんど抜け落ちてなくなる一方だった。体はといえば、骨が皮を被っているだけで、手首は柄杓の柄ほどになってしまい、頭だけが以上に大きく腫れている。

ある日のこと、シターが盗んできたものを食べた直後に、ミアルダイを戦慄させる知らせが届いた。それはレンがシターを殺すように命じたというものだ。ミアルダイのために食べ物を盗んでいたからだ。ミアルダイは驚愕のあまり気を失った。レンは彼女を病院へ移送させた。

ネアック・ウェアン地区の病院には、「ウサギの糞」以外の医薬品はなかった。ミアルダイの体はむくみ始めた。座っても、立っても、横になっても、頭を抱え込んで、痛みの広がりを抑えようとした。ミアルダイはただ、死ぬ日を待つばかりだった。



その日、ミアルダイはあまりの頭痛に、丸一日近く気を失っていた。気がつくと、医師がそばに黙って座り、彼女の顔を瞬きもせずに見つめていた。タイという女だった。目を開けると、タイはにんまりして尋ねた。

「同志、時計を持っているね」

ミアルダイは驚いて、死の恐怖を感じながら震える声で言った。

「同志、必要でしたら、差し上げます」

「本当?」

タイは急いで時計を取ると、自分のポケットに素早く滑り込ませて言った。

「偉大なる友人の中国の新しい薬を飲ませてやるから」

タイがこっそりくれた薬を飲んでから、ミアルダイは回復に向かっていった。



一ヵ月後。

ミアルダイはすっかり治り、髪の毛も少しずつ生え始めた。医師は、堤防造成がちょうど終わった頃に帰宅させた。

孤児となったミアルダイは、自分の家を見て立ち尽くした。芋を植えていた畑の畝と家の入口には雑草が生い茂っていた。屋根はところどころに穴があき、藁で作った壁はあちこち抜け落ちてぼろぼろになっていた。彼女は大きくため息をつき、家の中に入った。

「パパ…、帰ってきたわ。なのにパパはいない…」

彼女は父親を想い、自分を哀れんだ。寂しかった。惨めだった。父親の愛情によって生かされていたのに。だが今はこの世で頼れるものは何もない。

ミアルダイが柱を抱きかかえて泣いていると、ボライが帰って来た。彼は、ミアルダイが柱に抱きついて泣いているのを目の当たりにして驚いた。

「ミアルダイ、どうして泣いているんだい?」

彼女が振り向くと、そこにはボライが立っていた。ミアルダイはボライにすがりついた。そして今度は手で顔を覆ってボライの胸の中で泣いた。ボライはうろたえた。急に不安にかられたボライは、ミアルダイの肩を強く揺すって尋ねた。

「お父さんはどこだい?ミアルダイ?言ってごらん」

「パパは…、"オンカーの要請"で…、パパはあたしを置いて行ってしまったの…」

ボライは恐怖と驚きで落雷にあったかのようだった。

「何の罪で?」

「チョッチおじさんを弁護したの。おじさんは犂をムリに壊したって言われて」

「ああ…」

ボライは言葉が出なかった。黙ったまま立っていた。意識が遠のいた。

「今日家に帰ってきたら、パパのことを思い出して、そしてボライさんのことを思い出して…。あたし、気がついたの。あなたに対してどんなに間違ったことをしていたかっていうことを。パパが死んでしまって、あたしには頼る人もいなくなってしまったの。もう独りぼっち」

「ミアルダイ、済んだことを思い出すのはやめよう。僕はきみのことを妹だと思ってるよ。お父さんが亡くなってしまっても、きみを自分の妹だと思って守っていくから」

「嬉しい、ボライさんの言葉と気持ちが。あたしはボライさんにとっても酷いことをしてきたのに。それからあたしのために命を捨てた人がいるの」

ミアルダイはシターの話をした。

「パパはチョッチおじさんを守ろうとして死んだ。そして、シターはあたしに同情したから死んだの」

「もうやめよう、頭が混乱してきた…。少しずつ貯めてきた配給の米と塩漬けの魚も、今となっては誰に食べさせればいいんだ?お父さんは死んでしまった…。ああ!もうこれを受け取ってくれる人はいないんだ」

「パパ…、パパ…、パパ…」

ミアルダイは、座り込んで柱を抱きながら泣き続けた。ボライは黙って座ったまま天井を見上げた。

# by kokeko-13 | 2012-06-08 20:58 | カンボジア文学

花のゆくえ ⑦オンカーの下で<下>   

陰暦5月のある日のこと。ソーイはボライのそばで田植えをしていた。彼女は囁いた。

「奥さん、病気なのかい?」

「ええ、二晩も震えが止まらなくて。でもオンカーが怖くて具合の悪いまま出て来ていたんだけど。今朝はもう起き上がれなくて…」

「ここにいる中で一番辛いだろうねえ、ミアルダイは。仕事は上手くできないし、よく病気になるし。それにレン同志は、ミアルダイに近づこうとしているチュム同志のことで難癖をつけてくるし」

「家内は私に裏切るようなことはありませんよ。なんでまたレン同志は家内に言いがかりをつけて"自己建設"させようとするのか。ミアルダイはチュム同志の顔だってまともに見たことないのに」

「ミアルダイはあんたのいい奥さんだよ。ただレン同志は女だから一方的にミアルダイに妬いているんだろ」

「しーっ!黙って。オンカーのことをあまり言っちゃだめですよ。消されてしまう。おばさんも見たでしょう。この村じゃ、どんどん人がいなくなっていく。オンカーは壁に耳あり、パイナップルの目、ですから」

二人は心を痛めながらも黙って田植えを続けた。すると、恐ろしい声が飛んできて田植えをしている者たちをしんとさせた。

「ミアルダイ同志。同志には厚い垢がこびりついてまだ放棄していないようだ。同志は働かずに人民の労働を搾取している。自己建設しても変わろうとしない。おい!オンカーは同志を働かないままにしてはおかない。オンカーは人民すべてに平等の権利を与えるからだ。同志一人だけが楽をすることは絶対に許されない。何が病気だ。赤くてつやつやした顔をしているくせに。同志は意識の熱病にかかっているのだ。この怠け者!」

レンは目を釣り上げて、ミアルダイを睨みつけながら有無を言わせない形相でどなった。ミアルダイは水田に入ったが足は震え、誤って苗を踏みつけそうになった。

ボライはミアルダイの近くまで歩いて行き小声で言った。

「二列だけやればいい。前にある参列は僕が代わりにやるから」

彼女はマラリアの症状が全身に広がっていた。その上耳鳴りがしてよく聞こえなくなっていた。自由を奪われ、拷問のような仕打ちをされて彼女は憤っていた。ボライの声はもごもごとしか聞こえず、それがさらに彼女の苛立ちを倍増させた。彼女はあまりの怒りのためにのぼせて倒れかかった。

「ミアルダイ!」

ボライが慌てて彼女の体を抱きとめたので、田んぼの中に倒れ込むのだけは免れた。

ボライがミアルダイを抱えて畦の方へ行き、人々はミアルダイの手を揉んだり、体を撫でたりしたが、レンがやってきて非人間的な言葉を投げつけたため、皆ぞろぞろと戻って行った。辺りは静まり返り、人気のない荒野のようになった。

ボライは憂鬱な気分でミアルダイを抱きかかえていた。彼はミアルダイに対して何の愛情も抱いていない。二人はただ名目上の夫婦に過ぎず、実際に夫婦でもない。事実、ボライが彼女の近くにいることはあまりなかった。一緒にいたところで二人の仲はぎすぎすするばかりだ。ミアルダイはいつもけんか腰で、ボライに対して思いつく限りの罵言雑言を浴びせた。何度も"自己建設"されることに神経質になっており、また恒常的な飢えと重労働も原因していた。"自己建設"されたときは、ボライと父親のソコンに噛み付いた。わがまま放題で高慢だったミアルダイの傷ついた心を、誰も慰めることはできなかった。ソコンは娘の行き先を心配していた。いつの日か"オンカーの要請"でいなくなってしまうのではと。

ボライはミアルダイを抱えて歩きながら、彼女のあまりのぐったりした様子に不安になった。彼は死んだようなミアルダイを見つめた。顔は青白く、目は落ち窪み、頬はこけていた。ボライは暗澹たる気持ちになって、腹の底からため息が出た。かつては美しく生意気だった娘、大切に育てられ愛でられてきた花は、無惨にも踏みつけられている。すべてがあまりに絶望的だ。どこを見渡しても、生きとし生けるものの生気はなかった。風景のあらゆるものが、裏切り者たちから与えられる悲しみをともに感じているようだった。

家に着くと、ボライはミアルダイを静かに寝かせた。そして、隣に住むヌアンにカオ・クチョル(注:マッサージの一種)をしてくれるように頼んだ。親しく接したことのないミアルダイの体に触れて自分でカオ・クチョルをする勇気はなかった。ボライは怪しいと思われないよう、社会事業医師(注:ポル・ポト時代に創り出された医療従事者に対する呼称。医学的知識や経験のない者が従事していることが多く、施療は伝統的方法によっていた)を呼んでくるから、と出て行った。

ヌオンがカオ・クチョルをして、全身を揉みほぐすと、ミアルダイは体を動かし、瞼を開け、乾ききった唇でささやいた。

「パパ、パパ、もう…、疲れた…」

「気がついたのかい?」

「誰なの?」

「あたしだよ。ご亭主はお医者を呼びに行ったから」

ボライが白髪混じりの男を連れてきた。男は病人の近くによると、肩から下げていた袋を下ろした。そして、袋の中から薬の包みを取り出して開け、ウサギの糞のような黒い丸薬をボライに渡しながら言った。

「ほら、同志に飲ませな。1回4個、1日3回だ。なくなったらまたわしのところに来い」

「はい」

男は出て行った。ヌオンは頭を振りながら小声でボライに言った。

「ふん、どんな病気だってこのウサギの糞みたいな薬しかくれないんだね。治らなかったら治らなかったでまた、"自己建設"だよ」

「黙って。オンカーは壁に耳あり、パイナップルの目、ですよ」

ボライはミアルダイが目を開けて自分を見るのを恐れていた。また怒りが爆発するのではないかと思って、言い訳をして出て行った。

入れ違いにソコンが入って来た。彼は娘が死んだように横たわっているのを見て慌てた。

「ミアルダイ、薬を飲むんだよ」

「苦いわ…。きっとよくならないわ、あたしの病気」

「飲みなさい。これ以外に薬はないんだよ。お父さんのためだと思っておくれ」

「飲まない…でいいの…。早く死ねるから…。そうすればすぐに…苦しくなくなる…」

「ミアルダイ、お父さんが可哀想じゃないか。飲んでおくれ」

父親の言葉に耐えかねて、ミアルダイはようやく口を開け、喉を詰まらせながら、その丸薬を飲み込んだ。だがすぐさま全部吐き出してしまった。ヌオンは彼女の背中を叩き、ソコンは胸をさすった。ボライが家の裏手から帰ってきて、あわててヌオンと一緒にミアルダイの背中をさすった。

ひどく吐き戻し、ミアルダイは力なく横たわった。瞼はしっかり閉じられ、身動きしなくなった。ソコンは放心したように娘を見つめていた。ボライは吐いたもので汚れた衣服や毛布を持って出て行った。



ソコンは家の裏手にいるボライを探しに行った。

「お父さんは洗わなくていいですよ。僕が洗いますから」

「ボライ…。きみとミアルダイは夫婦では…」

「でも、僕はお父さんの息子です。お父さんにこんなことはさせられません。それに近所の人に、お父さんが洗濯しているのを見られたら怪しまれますよ。ね、お父さん」

「きみは本当に立派な人間だ。どうしてミアルダイには分からないのだろう…。本当に強情な子だ」

「ミアルダイは誰よりひどい目にあっているんです。可哀想なんです」

「ああ」

ソコンは唸ると黙りこくった。



「おい!ミアルダイ同志、重病なのか?医者は来ていないのか?」

ミアルダイは魚の目のように濁った目を懸命に開け、乾いた唇を開いた。

「チュム同志…。どうか…薬を取って…もらえませんか?」

「その薬は飲まなくてもよい。中国からの援助品のアスピリンとキニーネを持ってきた。さあ、飲むんだ」

チュムが薬の包みを渡した。

「起き上がれ…ないんです」

「頭を起こしてやるからな」

そう言うと、チュム同志はミアルダイの頭を起こして柄杓を口元まで持って行った。彼女が飲み終えると、チュムは座ったまま心配げに彼女の顔を見つめた。

チュムは密かに、そして強くミアルダイに恋心を抱いていた。ボライの妻だということは知っていたが、彼女の美しさがチュムの気持ちを捉えた。彼はボライを村から離れたところでの労働に何ヶ月も従事させて、彼が辺境の地で病に倒れ死ぬことを願っていた。ボライが遠くに出かけてしまうと、チュムはミアルダイと父親ソコンの二人に米やプラホックや医療品、タバコをこっそりと持って来た。二人の気を引くために、白い仮面をつけて懸命に演技をしたのだ。ミアルダイと義兄弟の縁を結ばせてくれと頼み込んだりした。

問題は、レンがチュムに好意を持っているということだった。チュムがミアルダイと親しげにすると、嫉妬からくる猜疑心と怒りの炎にオンカーの残酷さがあいまって、レンはあmるで罪人か動物に対するように、ミアルダイをあらゆる方法で痛めつけようとした。病気だと分かっていても倒れるまで労働作業に行かせた。

ミアルダイは死ぬことばかり考えていた。ソコンは繰り返し、何とか生き抜くのだ、と励ました。彼女は父親が不憫だった。たったひとりの娘が彼の慰めなのだ。たとえ中国人に操られたカンボジア人が残酷な仮面を被り、同じカンボジア人の血で手を汚し徘徊するこの地であっても、彼を生きていたいと思わせるのは娘だった。

ミアルダイの家族に対するチュムの行動は、あくまでも表立ったものではなかった。オンカー上層部の方針で、男女間の道徳規範が厳しいことは分かっていた。レンの執拗な追跡も恐かった。だからチュムは、ミアルダイに対しても誤解を招くような行動はとらなかった。夫のボライをできるだけ遠隔地に行かせればそのうち風土病で死ぬだろう。そうすれば、ミアルダイは未亡人となり、望みもかなうというわけだ。

チュムは座ったままミアルダイを見つめ、あれこれ思案していたが、特に話す話題もなく、立ち上がりながらぽつぽつと言った。

「薬はとっておけ、同志。もう行くぞ。誰か俺に用があるかもしれんからな」

チュムは出て行こうとしたが、病魔に侵され死んだようなミアルダイに視線を向けないではいられなかった。心残りではあったが、身のほどを忘れれば死があるのみだ。



ソコンは一人草刈りをしながら、遠くに思いをめぐらせた。祖国の、そして将来の柱となる小さな子どもたちの運命。大木の芯になるものはなく、周りの柔らかいところばかり。教育のための学校はない。地方に集められた人間は経済を促進させるためだけに働く。何かがおかしい。経済活動以外には何もしないのか?国をどのように導いていくのか?大切なのは経済だけで、他のさまざまな分野は捨ててしまうのか?どのように国を建設していくのだ?世界中見回してもこんな国はお目にかかったことがない。手本にしている中国ですら、こうではないのではないか?だがカンボジアはますます発展しつつあるという。大躍進、大驚異…。どのような大驚異なのだ、何が躍進するのだ、粥すら腹いっぱい食べられないというのに?

ガチャン。突然、皿の割れる音が家の中からして、ソコンの思考は中断された。彼は不思議に思って家に入った。薬の茶碗の破片がミアルダイの寝ているところから家の柱にまで散乱していた。ボライが呆然と立ち尽くしていた。ソコンはかがんで茶碗のかけらを拾いながら、何も言わずに娘を見つめた。娘は病気なのだ。ソコンはボライの手を力を込めて握り、家の外へと連れ出した。彼はため息をついて、ボライに言った。

「あの子の代わりに私が謝る。父親に免じてな、許してやってくれ、ボライ。ミアルダイがしたことは、私がすべて責任をとる。これまでもいつも強く叱ってきたんだが。ああ、何といえばいいのか…」

「お父さん、ミアルダイは混乱しているんですよ。僕は何も言っていません」

「じゃあ、さっきのは何だったのかい?」

「彼女は水が飲みたかったんですよ。よく聞こえなくて、僕が間違って薬の茶碗を渡したもんですから、茶碗を投げつけたんです」

「ああ…。本当にあの子は…」

# by kokeko-13 | 2012-06-07 17:11 | カンボジア文学

花のゆくえ ⑦オンカーの下で<上>   

オンカーに追い立てられるように歩き始めてから、1ヶ月以上が経った。ソコンの一行はコンポン・チャム州のトロペアン・クローン村に辿り着いた。

ソコンたちはオンカーから割り当てられた土地に一軒の小屋を建てた。そこは村はずれの野原で、死者を葬る場所とされており、人っ子一人住んでいないところだった。だが今や、"新人民"の村となった(注:1975年4月17日、クメール・ルージュの解放区に居住していなかった者。主にプノンペンなど都市住民を意味した)。所持品はまとめて検査され、ラジオ、時計などは没収された。彼らは"没収"という言葉は使わず、"オンカーの要請"と言った。新人民たちは"オンカー""要請""食する""放棄する"など、使い慣れない言葉に戸惑った。しかし、次第にその意味するところを学んでいった。"オンカー"に労働力を"要請"された家族は、夜であろうと昼であろうと行かなければならなかった。"放棄しない者"は誰でも"自己建設"させられた。細心の注意が必要だった。



新しい土地に足を踏み入れてすぐ、ソコンはボライとミアルダイを呼んで言った。

「おまえたち二人は夫婦として登録するんだ。そうでないと精鋭の移動部隊に入れられて、私から遠く離れてしまうだろう。奴らのやり方はわかっている。毛沢東主義の通りにしているんだ。私は毛沢東の本をたくさん読んできたから、労働作業の班分けのことも分かっている。若くて独身だったら必ず移動部隊に入れられてしまう。…まさか、文化大革命をまねた革命をするとは思わなかった。きみは私の言うことがミアルダイよりよく分かるだろう、ボライ。チャンナーを裏切らせたいわけじゃないんだ。ただ夫婦という名目でオンカーや他の者たちの目をごまかすだけだ。本当に夫婦になることはないんだ。いいか、どういうふうに芝居するんだぞ」

「パパ…、あたし…」

「ミアルダイ、おまえはまだオンカーのことが分かっていない。パパのことを愛しているんなら、そして自分の命が惜しければ黙っていなさい。大切なのはボライの決心だ」

ボライはしばらく黙りこくっていた。気持ちが揺れていた。そして顔を上げて言った。

「ソコンさん、僕は構いません。奴らのやり方にはぞっとします。ソコンさんのおっしゃるとおりにします。でも僕は身も心もチャンナーただ一人と誓っていますから」

「ああ、私だってきみに恋人を裏切った男にはなってほしくないよ。芝居に過ぎないのだから。私のことはお父さんと呼びなさい」

「はい」



時は過ぎていった。ソコンたちはひどく困窮していた。服の着替えはなく、食事は大きな共同食堂で全員が一緒にとった。米粒はわずか、おかずは木の葉と少々のプラホック(注:発酵させた魚)だけで、まるで豚の餌のようだった。それなのに労働作業はきつかった。「力一杯仕事をしていない」とオンカーに判断された者は、食事を断たれ、"自己建設"に呼ばれた。

ミアルダイは頻繁に"自己建設"の苦しみを受けることになった。オンカーから「まだ反動的性格を放棄していない」「敵の垢がべっとりこびりついている」などと批判された。それは「ブラウスの裾を巻きスカートの中に入れていた」「土を嫌悪するかのように田植えをした」という「垢」だった。

来る日も来る日もミアルダイの作業は他の人より早く終わることはなかった。彼女はそれまで重労働などしたことはない。精神的重圧の上、食べ物の不足で病気がちになった。病気になると彼女の胸はますます締め付けられ、涙には血が混じるかと思われた。オンカーが「意識の熱病にかかったものには食事は与えない。いかに弱っていようとも労働作業に行かなければならない」と批判するからだった。

ミアルダイはオンカーの出身階級について知るようになった。多くは教育を受けていない貧しい者で、訳も分からず彼らの言う、"党の闘志"とやらになったのだ。ミアルダイは、貧しい者で構成されているオンカーの理不尽な抑圧が悔しくてならなかった。彼女は、貧しい階級の出身で、しかも自分の近くにいる人間にその怒りの矛先を向けた。それはボライだった。ミアルダイは黒服のカラスたちのせいで身も心もすっかり参っていたのだ。

# by kokeko-13 | 2012-06-07 16:04 | カンボジア文学

花のゆくえ ⑥平和   

パネートがやってきた。

「日曜日の夕方だっていうのに、どこにも出かけないのかい?

「おもしろそうなところがないんだもの。ちょっと行ったらこっちでズドン、また少ししたらあっちちでズドンでしょ。市内中どこでもそうなんだから」

「ええっ、ズドンならズドンでいいじゃないか。こっちは儲かりっぱなしだぜ。ズドンがすごくなればなるほど、車の値段はうなぎのぼりよ。それにみんな遊びに出かけてるぜ。何にも見えやしないのに、何をそんなに恐がっているんだよ」

「死んじゃうわよ。かえってこられなくなっちゃうわよ、パネート兄さん。それに家にいるのも時間の無駄じゃないわ。勉強もしなくちゃ。学校じゃ、授業もだんだん減ってきたし」

「へえ、全然理解できないな。なんでそんなに頑張って勉強するんだ?財産がありあまるほどあって、取りっこするきょうだいもいないっていうのに。頑張り過ぎて痩せちゃったら美貌が台無しだ」

ミアルダイは従兄の言葉に照れて、顔を背けた。

「友達と約束してるの。彼女たち、家にバドミントンしに来るのよ。だから怒らないでね」

「ふうっ、もうがっかりだな。仕方ない、邪魔はしないよ。じゃ、また今度」

パネートは頭を振った。彼は密かにミアルダイのことが好きだった。だが恐れてもいた。だから、彼女のお気に召さないことはしたくなかった。何とかしていつも気に入られようとしていた。

ミアルダイはパネートを門まで見送った。彼が行ってしまうと、にやにやしながら家の方に戻った。実は、彼女は嘘をついたのだった。いい気味だ、と思った。彼女はパネートのカンボジア人としての常識を超えた派手さ加減に辟易していた。バイクを乗り回して女性に声をかけるのもいやだった。ミアルダイの友達、ムリヒも被害者の一人で、それを知ってからこの従兄にますます嫌気がさした。ミアルダイは確かに高慢で強情ではあったが、親類縁者から嫌がられるほど派手なことをするわけではなかった。友達とバドミントンをする約束があるからと言ったのはまったくの嘘で、パネートの誘いを断るためだった。

ミアルダイが家に入ろうとしたとき、呼び鈴がなった。門の方へ逆戻りすると、バイクに乗った女の子たちが3人、笑いながら入ってきた。

「運がいいわ、あたしたち。ミアルダイ、家にいたのね」

「あんたたち、どこに行くの?」

「あんたとバドミントンしに来たのよ」

「そうなの、みんな入って」

ミアルダイは嘘をついたことを思って噴出した。

「あんたたち、お腹が張ってない?」(注:他人に噂をされるとお腹が張るという俗信)

「なんでお腹が張るのよ。あたしたちがいつ腐ったものを食べたっていうの?」

ムリヒが不思議そうに言った。

「さっき、不良ヒッピーの従兄が遊びに行こうって誘いに来たんだけど、あたし、その従兄に嘘をついたの。あんたたちがバドミントンしに来るって。本当に来るとは思わなかったわ。だから、お腹が張ってないか聞いたのよ」

「あたしが訓示を垂れてやったことのあるあの従兄?」

「そうよ、ムリヒ」

「いい気味。悪い奴なんだから」

ヴァンニーが言った。

「すごいわ、嘘が上手いのね」とマリー。

「あら失礼ね、嘘つきなんて」

ミアルダイが噛み付いた。

「冗談よ、わかってるわよ。その従兄の態度が気にくわないんでしょ?」

ムリヒが口を挟んだ。

「そうなの。あんただって、あの従兄のせいで泣いたことがあるんじゃなかったの。あの失礼な態度がいやだから一緒に出かけたくないのよ。あたしを甘く見ないでほしいわ」

ミアルダイは笑いながら言った。

「ほんとよね。悪い男にはそうしてやるのがいい薬よ」

また、ムリヒが言った。

「ちょっと待っててね、ラケットと果物、持ってくるから」

彼女たちは頷いた。しばらくして、ミアルダイがラケットを抱え、果物とジュースを載せた盆を持った二人の使用人を従えて引き返してきた。するとムリヒたちが立ち上がってボライと話しているのが遠くから見えた。ボライを非常に尊敬した様子だった。ミアルダイは顔をしかめ思わずため息をつくと、わざとラケットを落とそうかと思った。自分の友達が貧乏な男に対して丁寧に接しているのが許せなかった。急いで友人のところへ戻ると、彼女は憤然と言った。

「あんなたち、バドミントンをしに来たの、それとも何しに来たの?」

「バドミントンをしに来たのよ。たまたまお姉ちゃんの英語の先生に会ったから、ちょっと話しただけじゃないの」

「あんたたちが先生だって尊敬している人間はね、居候なのよ。あたしの家族にとっては、飼鶏を蹴散らす野生の鶏よ。どう、分かった?」

ヴァンニーは信じられないといった様子でボライの方を盗み見した。ボライは温和で知識があり、分別のある話し方をする。ミアルダイが言うのとは違う。だがその場の状況から、ヴァンニーはいつものように、でも小さい声でにこやかに言った。

「ええ、なんでもっと早く言ってくれなかったの?さあ、バドミントンしよう」

「しようしよう」とマリーとムリヒ。

ミアルダイが振り向くと、もうボライはいなかった。ボライはミアルダイが自分へのあてこすりの言葉を言い始めた途端退散してしまったのだ。ムリヒがヴァンニーにささやいた。

「あたし、あの先生のことをよく知らないんだけど、でもあの先生の態度とか話し方って、ミアルダイが言ってるのとは違うと思うんだけど」

「あたしもムリヒと同感だわ」とマリー。

「それにしても、ミアルダイってきついよね。言うとおりにしなかったら、結局あたしのこと無視するようになるわ。仲がこじれるのも面倒だし」

「黙って、ミアルダイが来たわ。ほんとに気が強いんだから。だけど、気に入られたら、それはそれでやりやすい子よ」

4人は楽しげにバドミントンを始めた。夕方近くになって、みんな帰っていった。



3ヶ月が経った。休暇がやってきた。周りをぎっちり取り囲んでいる本の山から学生が解き放たれる時。自由の時。そして、この自由の時に、恒例のお楽しみがやってくる。それは新年だった。

だが、1975年のこの休暇は異常な恐怖と危惧の中に埋没してしまった。クメール共和国の首都プノンペンは、爆撃の交響曲が天地を震撼させ、さらに震えあがっていた。解放軍(クメール・ルージュ)による包囲はじりじりとプノンペンに迫っていた。だが権力者たちは愚か者になり果て、国家の重荷になるばかりで、爆撃と汚職はその回数を競っていた。物価ははね上がり、人々を食べ物を買う金さえ尽きてしまうのではと心配していた。人々はカニのように目をむきだして努力したが、生活は苦しくなる一方だった。背後で鳴り響く爆撃も人々を脅かした。汚職は雨にあたったカビのように広がっていった。「誰もが汚職をやましいと思わなくなった。財産は国民のものなのに、それを貪る者は平然としている」―新聞は糾弾した。だが政府高官や役人、軍人は金を大量に外国の銀行へ持ち出した。カンボジア人は、まるで針の穴に走りこもうとする象のように追い詰められていた。人と争いながら狭いところでもがき、何とか生き延びようとした。国の情勢は刻々と変わってゆく。人々は戦争を終わらせたかった。この恐怖、この苦しみ、食べ物もなく、水もなく、金もなく、学校もない状態を終わらせたかった。国のお偉方が、自分が死ぬ代わりに他人の子を捕まえて兵隊に行かせ、その間に密かに国家や国民の金を吸い上げるというようなことを人々は終わらせたかった。みんな平和を渇望していた。



ボライも戦争の被害を免れなかった。母親は解放区に無理やり連れて行かれてしまった。予想もしなかったことだ。そこでは一体どんな目に遭っているのだろうか。漏れ聞こえてくるのは、解放区では毛沢東が書いた本にあるような理論によって、みな平等で、すばらしい正義が行われているということだった。だが実際にはどうなのだろうか?ボライはこの休みには、コンポン・チャムに行けなくなった。母親が行方不明になり、チャンナーも家族ともども解放軍に連行されたという。コンポン・チャムに行っても仕方なかった。



1975年4月12日。ソコンはボライを自室に呼んだ。家族の重要な事柄については、ソコンは常にボライに相談した。彼を長男のように思っていた。

彼はボライとミアルダイがまだそれぞれに恨みを抱いていることなど知りようもなかった。ミアルダイは父親に隠れてボライをまだ侮辱していたし、ボライの方は、父親の幸せを壊す気もなかったので、一人怒りを飲み込んでいた。

ボライが部屋へ行くと、ソコンは座ってタバコの煙を吹上げていた。苦渋の表情だった。

「何の御用でしょうか?」

「ああ。お母さんとチャンナーの消息は?」

「まったくありません」

「そうか。情勢はかなり危ないね。外国に逃げる者もいるが、私はアンコール・ワットやサトウヤシの風景をどうしても捨てることができん」

「本当に。国を捨てる人たちは、よそへ行って恥ずかしくないんでしょうか。国も土地も民族もあるというのに、自分の国を、土地を捨てて、自分させよければいいというのでしょうか。国の問題を放りだしてまで」

「そういう人たちは何か間違ってる、ということにしておこう。では国が名誉と能力を与えてくれているのに、それを利用して国家を沈めようとしている者たちは、どうなんだろう。まったく、こんな事を考えてると頭痛がする。実は、ミアルダイのことで相談したいんだ。きみの意見がききた。パニー姉さんがミアルダイをパネートの嫁にしたいと結婚の申し込みをしてきた。困っているんだ。ミアルダイとはいとこ同士だし、結婚させるのは…」

「何と申し上げたらいいか。パネートは少々検討を要するところがあると思います。今の時点では将来をどうのこうのと言うことはできませんが、この先の見通しもつきません。でも断ったら、パニーさんは気を悪くするかもしれませんし」

「きみと同感だ。だから困っているんだよ。たしかにきみの前ではパネートは誉められるようなところはないかもしれん。だが紛れもなく私の甥でもある。それにしても一粒種の娘の命をあいつに預けるのは…。失敗したらそれまでだ」

「何と申し上げるべきか。まだ僕も若輩者ですし」

「なかなかできた若者だっているもんさ、きみみたいにね。だからきみの意見がききたい。私は経験はつんでいるが、真っ暗闇にいるようで先がちゃんと見えていない。当事者でなければ、かえってよく見えるだろう」

ボライは下を向いていたが、訊ねてみた。

「ソコンさんはどうなさるおつもりですか?」

「結局、断ることになるだろう。だが、パニー姉さんがお冠なのは困る。まともに顔を合わせられなくなることになるかもしれん」

「それでは、しばらく延期にしておくのはどうですか。ミアルダイはまだ若いからとか理由をつけて。国の情勢も不安定ですし。それからまた考えるっていうのは」

「そうだな、それしか道はなさそうだな。私もそう考えていたところなんだよ。話はそれだけだ。もうおやすみなさい、ボライ」

「はい」

ソコンはボライと話したとおりにしようと気持ちは固まった。だがまだ、パニーには話さなかった。正月が終わるまでは待とう。パニーが気を悪くすれば、せっかくの正月気分も台無しだ。



1975年4月16日。首都プノンペンに何かが起ころうとしていた。夜、人々は一睡もできなかった。爆撃音が天地を揺るがした。人々は恐怖に震え、防空壕に駆け込んだ。

夜明けとともに、戦車やバイクが音を立てて首都の主要な道路にあふれだした。黒服に身を包んだ軍隊が町中に姿を現した。これが解放軍の勝利の合図であった。

ラジオもそのニュースを流した。人々は勝利を祝福した。解放軍が首都に入るというのは、戦争の終わり、涙の終わり、苦しみの終わり、あらゆる恐怖の終わりを意味していた。人々は狂喜し、白旗を振って家々から出てきた。それはまるで、勝者を祝福するジャスミンの花のレイのようだった。人々は黒い軍隊に懸命に微笑みかけた。誰しもが喜びに溢れていた。どんなに貧しく困窮しようとも、平和と安定のうちに暮らせるのであれば、毎日恐怖に怯えながら宝の山の上で生きていくよりもましだった。



ソコンの家の前では、ソコン、ボライ、そしてミアルダイが、次々と波のように押し寄せる人々で家の前の通りが溢れていくのをじっと見守っていた。3人はいぶかった。人々は一体どこへ行こうとしているのだろう?子どもの手を引いている者や、年老いた母親の手を引いている者。臨月に近い大きなお腹の妊婦もいる。

耳慣れない言葉が耳に入ってきた。

「早く出ろ。米軍が襲撃を開始するぞ」

「オンカーは3日間家を出よと要請している。同志諸君よ、急げ。何も持って行く必要はない」

「早く歩け。のろのろするな。死にたいのか?」

銃声とそれに続く悲鳴。

「この家の者は出て行かないのか?」

ガチャーン。ソコンの家の門が、黒装束の兵士たちによって蹴られ、開いた。3人の兵士が銃を手にずかずかと入ってきた。彼らをソコンを憎み、怒り、恨むかのように睨みつけた。ソコンは懸命に笑みを浮かべて兵士たちに走り寄って迎え、丁寧に言った。

「どうぞ、あの…」

「家から出ることを要請する。オンカーは敵を一掃しなければならない」

「ええ!でもどこに!家の裏の防空壕になら避難することができますが」

「口答えする気か!早く出ろ!つべこべ言うんじゃない」

ソコンの近くに立っていた一人が脅すように言った。もう一人がボライとミアルダイの近くの扉に向かってパンと銃を撃った。ボライはぎょっとした。そして、ぶるぶる震えているミアルダイをつついて小声で言った。

「ミアルダイ、早く大切なものだけまとめておいで。ただごとじゃないぞ。ほら通りを見てごらん」

「いやよ。どうやって?」

「急ぐんだ、ミアルダイ。僕はここでソコンさんと一緒にいるから」

ミアルダイは恐怖におののきながら家の中に入っていった。ボライは黒服の兵士とソコンの近くまで歩み寄った。そしてその一人の口から出た言葉にぞっとした。

「この家の人間は、オンカーの命令に反抗したいのか?」

バーン。新たにもう一発が家の入口に撃ちこまれた。

「即刻、退去しろ。さあ、行くぞ」

ソコンはボライの顔を見た。ボライもソコンの顔を見た。黒い兵士たちは門を外に蹴り飛ばしていった。兵士たちの言動、人々が先を争って道を急ぐのを見て、ソコンは口をつぐんだ。

・・・・・これが人々の待ち望んでいた平和なのか?


75年4月 カンボジア人は忘れない
その日を子孫への遺言としよう
その日その時心の黒い奴らが
カンボジアの男、女を深い穴に突き落とした
カンボジア人の涙は流れて川になった
骨の山がその証人
カンボジア人の血は流れて大地を塗らした
望んでいた自由の代わりに
生きながらの地獄と壁のない牢獄
カンボジア人よ心に刻み続けよ
凶賊への怨念を忘れるな
彼らは野獣のような心で我ら民族を裏切った

# by kokeko-13 | 2012-06-07 14:55 | シンガポール文学

花のゆくえ ⑤ミアルダイの怒り   

ミアルダイは客間で父親のそばに座り、レース糸でハンカチの縁を編んでいた。ソコンは新聞を読みふけっている。ミアルダイのまばゆいばかりの笑顔は、大輪の花が咲いたかのようだった。強情で鼻持ちならない性格だということを知らなければ、誰もが彼女の美しさを褒め称えるに違いない。彼女の表情からはその気性を想像することなどできなかった。

門のベルが鳴った。バヌットとレアッカナの若夫婦がやって来た。二人は合掌して挨拶した。

「ところで叔父さん。ミアルダイは前おりはましなんですか?」とバヌット。

「いやあ、変わらんね。まったくこのお転婆娘をどうしたらいいものやら」と父親。

「パヌット兄さんもパパも嫌いよ。会えばいつも私の悪口ばかり。レアッカナ姐さん、あたしの部屋に行きましょう。レース編みの本を見せてあげるわ」と言って、ミアルダイとレアッカナは出て行った。



「今度の日曜日、僕の誕生日なんですけど、ママが叔父さんとミアルダイをパーティに招待するようにと言っているんですよ」

「そうか。じゃあ、行くとしよう」

「ボライはいますか?彼にも来てもらいたいのですが」

「おや、ボライを知っているのか?それはいい、言っておこう」

「ボライとは同級生なんですよ。彼はすごく優秀で、先生たちの期待の星なんですよ。彼は僕の家を知らないんだな。どうして、ミアルダイに聞かないんでしょう?」

「ミアルダイとボライはあまりウマが合わないみたいなんだ。私の知る限りでは、ミアルダイがボライの権利をかなり侵害しているようでね。彼はいかんせん我慢していて、ミアルダイと何があっても一言も私に言わないのだよ。あの子がボライを侮辱している話は使用人から聞いているんだがね」

「パネートの性格も、ミアルダイとあまり変わりませんね。ママがあいつの味方をするんで、余計つけあがっているんだ。まったくパネートにも僕も手を焼いていますよ」

ソコンは話題を変えて、パヌットに新聞を渡して言った。

「この社説を読んでごらん。大変なことになりそうだな」

「かなり不穏な感じですよ。汚職は雨季のカビのような勢いで増えているし、徒党を組んでの縁故主義みたいなものがますます強くなって、内側を食い荒らしている。それが国中に満ち満ちている。誰もが隙あらば私腹を肥やそうとして、国のことなんか考えなくなってしまった。軍の連中なんか、金をがっぽがっぽ汲み上げていて、カンボジアの金はどんどん国外へ流出してしまってるんですよ。ママは僕たちを外国に行かせたいらしいんだけど、僕は一歩たりとも外へは行きませんよ。国が混乱していて、日和見主義の奴らに沈没させられようとしているときに」

「まったく、国のことを考えると本当に頭が痛いな。昔は封建主義がいかんと言っていたのだが、今じゃ、一体何が国民をひどい目に遭わせているのやら。一度権力を持つと、いい気になって、爆撃の音が国の心臓にまで響いていることを忘れてしまう。それでも目を覚まそうとしないんだな」

「一部の学生は気づかないうちにだまされて、コマみたいに回されているんですよ」

「ああ、混乱の時期に入ってしまったんだ。おまえはしっかり勉強するんだよ。あれこれ余計なことは考えるんじゃない。私の言うことを信じなさい」

「はい、僕の叔父さんに同感です」

パヌットは二人兄弟で、弟はパネートといった。二人は全く違う性格だった。パヌットは学業優秀で温和でしっかりしていたが、パネートは中学卒業試験もやっと合格したくらいで、一転して中古車販売をすることを思いついて、それからは濡れ手に粟のように金が入った。母親のパニーは、夫婦ともども勉強ばかりしているパヌットよりも、次男ノパネートを溺愛するようになった。パネートは社会的地位を鼻にかけ、傲慢で派手な生活をし、大勢のヒッピーのような仲間と交わっていた。パヌットは身分の上下ではなく、正義と誠実、善悪の判断のできるボライのような友人とつきあっていた。パヌットはボライがソコンの家で暮らすようになる以前から、彼に経済的援助をし親しくしていたのだった。



パヌットの24才の誕生日パーティーの夜がやってきた。ミアルダイはむくれていた。ボライも一緒に行くというので心穏やかではなかったのだ。

パニーの邸宅前に車が着くと、パヌットとレアッカナが走り出て来て、ソコン、ミアルダイ、ボライを笑顔で迎えた。パヌットはソコンとミアルダイに丁寧に挨拶をすると、ボライの両手を握って言った。

「来られないかと思ってたよ。叔父さん、今夜一晩、ボライをうちに泊めていいですか?」

「ああ、私は構わないが、本人に聞いてみてくれ。何か用があるかもしれん」

「いいかい、ボライ?」

ボライは微笑みながら頷いた。懇意にしている友人が今晩泊まってくれというのを断るわけには行かなかった。

レアッカナも、ミアルダイの手を引っ張って、ソコンに言った。

「ミアルダイも一晩、私と一緒に泊まらせてくださいな、叔父様」

ところが、ミアルダイはボライも泊まると聞いたので、何とか言い訳をしなくてはならなかった。

「ごめんなさい。なんだか家を出たときから気分が良くなくて。来たくなかったけど、パヌットや伯母様に悪いと思って、がんばって着たの。だから今夜はご一緒できないわ」

「ああ、家にいるときからそういってたな」と、娘の本心など知らず、ソコンは言った。

そこへ、弟のパネートが出て来て言った。

「やあ、とっても嬉しいよ。ミアルダイがいてくれれば、友人たちも君の美しさに圧倒されるっていうもんさ」

「いやよ、パネート兄さんのそばにはいないわよ。パネート兄さんの友達って不良ばかりじゃない」

ミアルダイはレアッカナと手をつないだまま、眉をひそめた。パネートは口をとがらせて頭を掻いたので、みんな噴出した。



パーティーのプログラムはダンスになった。パヌットはレアッカナと踊り、パネートはミアルダイと踊った。ボライはフランス人教師と踊った。音楽が終わると、カップルはそれぞれテーブルに戻った。パネートとミアルダイはソコンとパニーのテーブルにやってきた。ボライ、パヌット、レアッカナな教師や外国人たちと他のテーブルに行った。ソコンはボライはカンボジア人や外国人の教師、多くの友人たちに囲まれている様子を見て微笑んだ。そして、この先のボライの輝かしい将来を願わずにはいられなかった。ソコンがパニーにボライを誉め始めると、ミアルダイはむかむかしてきて、我慢できなくなった。そして、気分が悪くなったと言い訳をして、先に帰ることにした。

何がたいしたものよ。理想が何よ。ああいうふうに上手くやる奴は、表では嘘をついて裏では悪いことをやってんのよ。まったく、パパったらわかんないのかしら。あいつがパパを裏切りながらパパのご飯をたべてるってことを。目を開けてしっかり見てよ。あいつがパパの娘のプライドを台無しにしてるってことを。

# by kokeko-13 | 2012-06-06 16:04 | カンボジア文学